「未来へ」

もうすぐ新しい年ですね。

今年もあと残りわずか。

 

皆さんは誰と過ごされてますか?

 

私は家族と過ごしています。

 

タイトルにもあります

 

kiroroが歌う「未来へ」

 

これは、父が好きな曲の一つ。

 

12月いっぱいお休みを頂きました事へのお詫びと、そのご報告になります。

 

私にとって、一つの節目となるだろう、出来事がございました。

 

ネガティブなワードも含め、長く綴っておりますが、記録として今の自分の想いを残すために、忘れる事のないように、書かせて頂きました。

 

気分を害された方がいらっしゃいましたら、申し訳ございません。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

12月20日は、わたしの父の77歳の誕生日でした。

 

去年は、たしかハイネックのパーカーをプレゼントして、「ありがとう.身体に気をつけて」なんて、互いにさっぱりとした、内容のメールのやり取りをしていました。

 

今年は、父を囲みながら、ケーキ型の蝋燭を灯して、食事をしました。

 

父は、にたっと、笑っていました。

 

でも、もう姿はありません。

 

 

2018年11月30日、77歳の誕生日を前に、父 は永眠いたしました。

 

 

喉頭癌でした。

 

 

およそ、1年半前ステージ4の喉頭癌が発覚し、抗癌剤治療をはじめました。

 

このころは、まだ父と声で、コミュニケーションが取れていました。

 

すでに、ガサガサかすかすの声でしたので、なんか病気もっているんだろうなと、嫁いだ時から、思っていたのですが、中々病院に行こうとしなかったと、母からきいていました。

 

数ヶ月後。

放射線、抗癌剤治療は、癌の進行を止める事ができず、少しでも長く生きていく為に、と声帯の全摘出をしました。

 

去年の年の瀬に、父は声を失くしました。

 

 

 

父は歯科医で、まだ現役で医院を経営していました。

 

闘病中も、早朝に病院へ行って、放射線治療を受け、その足で仕事へ向かっていました。

 

診療は、筆談で行い、体調不安定な中、頑張っていたそうです。

 

私は、抗癌剤治療した事ないので、その辛さは計り知れませんが、

70代前半、高齢の身体に、ムチを打つような日々だったのではないかなと、思います。

 

辛くない訳が無い。

 

それでも、来院くださる患者様に感謝し、仕事が出来ることに、父は生き甲斐を感じていたのだと思います。

 

仕事熱心な人でした。

 

声帯摘出後、放射線治療で喉の粘膜がひどく焼けただれしまい、食道の粘膜までも損傷してしまいました。

 

なので、損傷が治るまで経口摂取は禁止されていました。

いつか食べれるようになると、信じていたと思います。

お医者様も、そう仰っていました。

 

口から食べれない間は、胃に直接、管を通して、叔母手作りのかぼちゃスープを流しこんだり、口が寂しくなれば噛んで、それを飲み込まずに出す。

そんな事をして、空腹を紛らわせていました。

 

汚いと思われてしまうかもしれませんが、口の中で、味覚を感じる事は、父にとってせめてもの楽しみだったのではないかと思います。

 

甘いお団子、かりんとう、おもち、ラーメン、濃口が好きで、食べるのが本当に大好きな人でした。

 

私は、年末、お盆、出張のついでにしか、帰ることができませんでした。

 

帰るごとに突きつけられる現実はとても残酷で、あんなにビール腹でお腹がでていて、身体も胸板厚く、がっちり体型だった父は、どんどん変わっていきました。

 

痩せて、肩幅が、身体の厚みが、足が、手が、細くなっていく。

私より、も華奢になる。

鼻から通している管が神経を圧迫してか、顔の右側だけが、腫れ上がって、見慣れた優しい父の顔を崩していく。

 

それでも、私が「大丈夫?」

 

と聞くと、親指をグッとたてて、ニヤっと笑いながら頷きます。

 

徐々に衰退して行く父に会うのは、本当に怖くて苦しくて、仕方がありませんでした。

 

そして、

今年の6月、もう粘膜の損傷が治る見込みがなく、経口摂取はできない、と診断が下り、胃にも物を入れることはできなくなり、点滴のみの生活になりました。

 

父は、息をひきとるまで、約一年間、何も飲まず、食わずで、病気と闘いました。

 

なんて強靭な精神力。

本当にがんばったな、と思います。

 

母によると、一度も弱音を吐かなかったと、食べれない、喋れない、そこからくる苛立ちから温厚だった人格はたまに崩れる瞬間はあったけれど、治療に対しては、真っ正面から、挑み、怖気付く事なく、頑張っていたと、聞きました。

 

強い人だなと、思いました。

 

 

ふと、思い出したのは、、

私が20歳になって、父と2人で飲み屋に行った事。

 

その時、父が言っていました。

「自分は食べる事が大好きだから、きっと食べれない病気になって死んでいくだろう」

 

ああ、

全く、当たらなくていい事があたったなぁ。

と思いました。

 

 

そして、父自身が、体力的にも精神的にも限界と判断し、今年の8月、先祖代々引き継いできた診療所をたたむ事になりました。

 

 

私も、たくさんお世話になった診療所。

院長室で宿題したり、お菓子たべたりもした。

その後お父さんと帰ったりしたな。

私は歯医者にはならなかったので、父の医院は閉院となりました。

 

悲しかったです。

 

まだ、働くつもりだった、父が1番悔しかったでしょうね。

 

 

 

8月、お盆に旦那と息子と帰省し、お見舞いへ行きました。

 

息子にとっても旦那にとっても、自力で人らしく動く最後の父の姿となりました。

 

息子はちょっと様子が違うじぃじの姿に、病室に、緊張してか得意なおしゃべりも全くできませんでした。

 

そんな息子に、じぃじが、冷蔵庫を開けてと、ジェスチャーをして、お菓子をくれました。

 

きっと、自分が食べたくなって、売店で買ってきたものだったと思います。

 

父の好きなウエハース菓子。

 

噛んで出す、をこっそり母が居る時だけやっていたみたいですが、冷蔵庫もチェックされるようになり、看護師さんに見つかって持って帰ってもらうよう、言われる事も何回かあったそうで。笑

 

息子は、無邪気にバリバリとそのお菓子をたいらげて、じーっとじぃじを見ながら、声を発せずに、病室を去りました。

彼なりになにかを感じていたのでしょうか。

私も意識がはっきりしてる父の姿はこれが最後でした。

 

 

 

9月末には、緩和ケアに移ったと母から連絡を受けました。

 

ああ、そろそろなのか。

覚悟をしなければ行けないのだなと。

 

 

死を待つのって、どんな気持ちなんだろう。

お父さんは何を思っているんだろう。

 

 

10月。とうとう携帯のボタンやナースコールを押す力すら、なくなってしまいました。

母が病室に寝泊まりする生活となり、今まで以上につきっきりで、介護、補助をしていました。

 

父は、医者の命の利き右手に、神経麻痺がでて、手首から下が、コの字に変形してしまいました。

 

寝返りも打てないから、床擦れも、すごかったと聞いています。

 

苦しくても、痛くても、それを伝える素手が本人には無いのに、何が緩和ケアなんだろうか。

 

楽にしてあげて欲しいと、思ったりもしました。

 

でも母からお父さん頑張ってるよ、とゆわれて、父の生命力を信じる事にしました。

 

全てを、負担して、尽くしてくれた母にも頭が上がりません。

 

本当はわたしだって、病院に通ってマッサージや色々なお世話をやってあげたかった。

 

近くにいたら、サポートしてあげれたのに、母にも父にも、本当に申し訳なくて、無念で、仕方がなかったです。

 

 

11月。

2回ほど富山に帰る機会をもらって会いに行きました。

 

11月6日

父は、目を開ける力も、なくなってました。

 

右の方ばかり向くので、右瞼が水膨れのように大きく腫れていました。

何かに舌がおしだされて、口からべーっと出た舌が乾燥して、皮がむけて、こちらも、すごく痛そう。

そして、苦しそう。

 

私は耳元で話しかけましたが、ギュっと少し眉間にシワがよるぐらい。

 

でも、不思議と

わかるよ、えりか、おかえり。ってゆわれたような気がしました。

 

耳掃除してあげたら、やっぱり眉間にシワがやりました。

こしょがしかったのかな。笑

 

その後は、

母と笑って話してる声を父になるべく聞かせるように会話をしました。

 

母にお願いして、キロロの「未来へ」も毎日、聞かせてあげてもらってましたが、歌詞を聴いてるだけで、泣きそうになる自分がいて、その日は、もう流すのをやめました。

 

 

11月24日

この日は、たぶん最後になるかもしれないと、旦那と息子連れてお見舞いに。

 

旦那が父と二人で話したい、伝えたい事があるから、2人きりにしてあげました。

 

何を話したのかは、知りません。

 

私は、かける言葉が出てこなくて、最期かもしれない、いや最期になんてならないでほしい。そんな思いで、父のアタマを撫でて、体温を感じて病室を出ました。

 

息子は、見てくれがやはり刺激が強かったのか、じぃじ怖いと怯えていたので、怖くないよ、いつもの優しいじぃじだからね、寝てるだけだから。

 

と  なぐさめて、声を聞かせてあげたかったのですが、その日も得意のおしゃべりはできずに、病室を後にする事になりました。

 

 

〜11月30日(金)〜

私はいつも通り、東京にいて、保育園送迎、レッスンと変わらぬ日常を過ごしていました。

前日に、もう母の声にも反応がなくなったと、連絡があった時に、すぐに帰れば良かったのかもしれない。

 

父は朝からなんだか、様子が違っていたそうです。

でも、母は私にはその事は連絡はしませんでした。

痙攣があって、鎮静する薬を投与してもらって、もしかしたら、その薬が強かったのか、それが、引金になったのかも、と聞きました。

 

痙攣してる父なんて見たくなかったから、よかったのかな。

 

そして、

 

11月30日 金曜日 の夜、長年夫婦として人生を共にした母に看取られながら、父は静かに息をひきとりました。

 

 

 

連絡をうけた翌日、息子と旦那と何もなかったかのように新幹線に乗って帰省しました。

 

毎回帰るのが嬉しかった実家。

 

今日は、足取りが重い。

 

家の前に立った時、喪中の札、喪中幕をみて、心臓がギュっと小さくなりました。

 

やっぱり覚悟なんて出来るはずがなくて、夢であってほしいと、ただ、ただ願いながら、家に入りました。

 

 

昔、父とよくお参りした仏壇の前に、白い綺麗なお布団をかぶせられて、とても穏やかな表情で、父は眠っていました。

 

いつのまに泣いていたんだろうか。

 

ずっと泣いていたのかも。

 

 

「お疲れ様でした」

「頑張ったね」

 

と二言だけしか、言葉が出ませんでした。

 

 

そっとアタマを撫でて、体温を感じて、現実を受け止めました。

 

通夜と葬儀の二日間。

できるだけ父と共に過ごして、穴が開くぐらい父を見つめて、色々思い出していました。

 

 

何年振りでしょうか、父と同じ部屋で寝たのは。

 

騒音並みにうるさい、無呼吸なりかけのいびき、歯が欠けそうなぐらいの歯ぎしりは、もう聞こえない。

 

父の周りだけ時が止まっていました。

 

 

そのかわりに、うちの旦那がめちゃくちゃうるさいイビキをかいてくれています。笑

 

息子は、夜中までらはしゃいで、走り回り、じぃじ棺の足元でうんこ踏ん張る始末。

 

うちの男のどもは、こんな時もいつも通り。笑

 

でも、息子や旦那がいてくれて、気持ちがほぐれたのはたしかで、感謝しています。

 

おかげで 、身内親族と笑いが絶えない一夜を過ごす事ができました。

 

お父さんと寝る最後の日。

 

 

でも、なかなか寝つけませんでした。

母は、結局、寝てませんでした。

 

 

告別式の日

朝、最後に、「未来へ」を父の棺の横で、流してあげました。

 

父の祭壇のは、たくさんの花で、満たされて

すばらしく、立派なものでした。

 

でも、そんな光景を見て、遺影にいるのが自分の父である事が悲しくて、ただ立ち尽くしていました。

 

なんで、そこにいるの。

なんでそんな狭い箱に入って寝てるの。

 

ずっとそんな事を考えていました。

 

 

その日、初めてお嫁に行く時に仕立ててもらった喪服に袖を通しました。

家紋の入った由緒正しい着物。

父が作ってくれた着物。

 

でも、仕付け糸、こんなに早く切る事になるなんて、思ってもいませんでした。

 

着物は、すきです。

着付けはいつもワクワクしてたのに。

 

その日だけは、着付けてもらっていてもただ、ただ虚しく、悲しいだけだったよ。お父さん。

 

 

通夜、葬儀には140名程の方が、足を運んでくださり、生前より父が受けたご縁の有り難みを、噛み締めさせていただきました。

 

良かったねお父さん。

良かったね。

こんなにたくさんの人が来てくれたよ。

 

嬉しくて、寂しくて、また涙がでました。

 

私は、人生1番に泣き虫な3日間を過ごしていました。

 

 

棺には、家族の思い出写真をたくさん入れました。

若い頃の家族写真、結婚式の写真、恵太朗の0〜3歳の写真、一度も招く事が出来なかった、新居の写真。お父さんに買ってもらったダイニングテーブルの写真。

浄土土産に持って行って欲しかったから。

 

 

葬儀を終え、父の棺の中へお花を供える時、父の目にも涙が見えました。

 

浄土に行けて、嬉しいから涙がでているんだ。

悲しくないし、寂しいわけじゃない。

お父さんは今、人間に生まれてきた使命を全うして、とっても幸せなんだ。

今日はお父さんにとっては、目出度い日なんだよ。

 

 

ある方から教えてていただきました。

 

少し安心しました。

 

 

それでも、火葬の時は、もう本当に姿が消えてしまうのだと思うと、込み上げてきたものが、抑えきれず、ありったけの想いを伝えました。

 

ありがとう。

だいすき。

あなたの子供に生まれて幸せだった。

お父さん。

お父さん。

お父さん。

 

何度も、何度も、棺が見えなくなるまで、叫んでいました。

 

届いていますように。

 

届いてるよね。

 

かなりうるさかったもんね。笑

 

 

そして、

 

小さくなった父を抱きしめて、また家に帰って来ました。

 

毎日、お線香をたいて、手を合わせて、だんだんと、現実味がわいてきて、、。

なんでこんな早く逝ってしまったのかと考えてしまって。

やっぱり寂しくて、会いたくて、涙がでてきます。

 

私にも、そして、母にも、時間が必要なんだと思います。

 

 

父がいなくなった実家は、母1人にとっては広すぎて、余計寂しさを際立たせます。

 

私と息子が東京に戻った時の母の事を想うと、心苦しいですし、心配です。

 

今更ながら、

未来の事をもっと考えるべきだったな、と。

 

やっぱり、富山で身を固めてあげればよかったのかな。

 

後悔している自分がいました。

 

ちょっとだけ。

弱気になってるだけ。

時間が経てば大丈夫。

 

 

 

私はちゃんと、強く生きて、息子を、家族を守らなければいけない。

 

家族の存在に支えられて、必要とされる場所があるなら、そこで頑張らなければ。

 

もっと頑張って働いて、頻繁に富山に帰って、旅行にも連れて行ってあげたい。

 

父がいる時にはかなわなかった、三世代旅行がしたい。

 

まだ、やりたい事があり過ぎる。

それって幸せだし、生き甲斐になる。

 

やりたい事を考えていたら、大きかれ、小さかれ、目標を持つことで、未来を見据えながら、ポジティブに歩いて行けそうな気がしてきました。

 

うん。

大丈夫だ。

 

 

と今は思っています。

 

 

 

あーーーー、人生最っ高に辛かったし、悲しかった。

 

 

 

ここまで、色々長々と書いてきました。

 

伝えたい事は、こんなところかな。

 

父が、いなくなったからこそ、得たものもある。

かなり沈みました、が。以外と元気にやっていけてます。

 

これからも、インストラクターちゃんと続けていきたいです。

 

運動不足で丸々してるし、身体もこわばりまくって、トレーニングサボって反省してます。

 

でも、少しでも前向きに、やりたい事、やるべき事を探して、東京に戻りまた心新たに頑張りたいと思っています。

 

 

2019年1月からは、心機一転。

 

スイッチONで、働くママを私らしく頑張って行こうと思っています。

 

自分とその家族が、元気でいる事が、なにより親孝行ですし、天国の父もきっと、それが嬉しい。

富山にいる時よりも、もっとそばで、見守ってくれているはずだから。

 

 

最後に、なりますが、

今年も大変お世話になりました。

色々な事を学び、喜怒哀楽し、刺激たくさんの一年でした。

 

来年も、また沢山勉強したいし、笑いたい。

たくさん、笑いたいし、笑わせたい。

 

年末のイベントは一切でれなくて、寂しかったです。なので、また、仲間やお客様とレッスンやイベントで沢山、汗かいて、一緒に笑いたいです。

 

 

 

なにかにつけて、、「平成最後」の瞬間がふえていきます。

 

#平成最後のカウントダウン

#平成最後のお正月

 

ご家族や大切な方と、幸せな時間をお過ごしましょう!

 

最後までお付き合い頂き、本当にありがとうございました。

 

来年も、よろしくお願いします。

 

谷井 恵利香

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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